2014年12月31日水曜日

「生」と「死」を考える大晦日

2014年もあとわずか。
私にとっての大晦日は、宣伝の仕事を辞めて、
ポラリティを仕事にする「きっかけ」の日かもしれません。

4年前の大晦日の夜、私の帰省を待つかのように、
父が倒れて、約2週間後亡くなりました。
今思うと、その2週間は、
これから人にセッションしていくうえでの、
父からの命がけの「最終講義」だったようにも思います。

私は病室で2週間セッションしつづけ、
命のこと、魂のこと、身体のこと、病気のこと、人生のこと、あの世とこの世……
そこで多くのことを感じ取り、学びを得ることができました。

そして、「最終試練」
2週間後、私は自らセッションするのを辞めてしまいます。
セッションをやめると亡くなってしまうのはわかっていました。
でも、それが父にとって一番尊重されることだと気づいたからです。
父は私がカラダを触ってくれるのが、
とても嬉しくて死にたくても死ねなかったようです。
それに気づいたとき、「死ぬことも尊重される必要がある」と痛感しました。

そして、まだかろうじて生きている父に「最後の挨拶」をして、
私は病室を後にし、その2日後に父は亡くなりました。
亡くなる日の朝、私の大阪の自宅に父は来てくれていました。
背中にそっと手を当ててくれていたのを感じました。

私にとって大晦日は、「生」と「死」について考える日になっています。
そして、今の活動のモチベーションの原点でもあります。

2014年12月15日月曜日

見えるはずのものが、見えていない?!

「正しいか、間違っているか」や「〜ねばならない」などの
思考でぎゅうぎゅう詰めになっていると、
世界がこんな風に見えてしまうのかもしれない。
白か、黒か、はっきりとした強さはあっても、
この世界にいると、どんどん不安になってくる気がします。
ココロが動いて感動することも、笑うことも、
何が楽しくて、何が悲しいのかもわからなくなってしまいそう。

見えているようで、それが何かわからない状態。
見えるはずのものが、見えていない。


そして、
思考のとらわれが緩んでくると、
白や黒だけではない、グレーゾーンが見えてくるのかもしれない。

世界は一変して、まだまだ平面的だけど優しい感じがします。
今まで見えなかったいろんなものが見えるようになって、
わかるようになってきます。
視界がクリアになってくると、思考の緩みが加速して、
その隙間から感覚が目覚めてきます。

そして、
風を感じ、音を感じ、温かさや冷たさ、いろんな感覚がみたされてくると、
元のありのままの世界が見えるようになってくるのかもしれません。


私たちには思考することも大事ですが、
すぐにとらわれて盲目になってしまいます。
そうならないためにも、泣いたり、笑ったり、感動したり、
人に優しくしたり、風や音を感じながら、
いつでも感覚を満たせるような生活をしていきたいですね。

はぁ〜、宮古島行きたい(笑)

多様性を認めること

【人の多様性を認めることはとても難しい】

と、庭の草引きをする度に思います。

庭の草はみんな、大地から同じチャンスを与えられて
生えているのに、草引きという人のジャッジが入ると
選ばれる草と選ばれない草がでてきます。

しかも、そのジャッジは、
キレイな花を咲かせる、食べられる実をつける、など
とってもプライベートな質のものだったりします。
だから人によってもジャッジが違うわけです。

多様性を認めるということは、
ジャッジをしないということなのかもしれません。
ふと、去年そう思い、草引きを辞めて、
庭の草をボーボーにしてみました。

すると、フキ、ふきのとう、シダ、山椒、
名前の知らない可愛い花を咲かせてくれるものなど、
いろんな植物が生えてきました。

手入れされた美しい庭もいいですが、
いろんな命と出会える発見の楽しみのある庭もいいものです。

人の多様性を認めることは、ジャッジをしないこと。
すると、そこに全く予想もしなかった
楽しみが生まれるかもしれません(笑)

今、庭の青もみじがキレイです。
天気の良いときに、下から葉っぱを見上げるのが好きです。